※ 歴代組長 ※


初代 山口 春吉 二代目 山口 登 三代目 田岡 一雄 四代目 竹中 正久 五代目 渡辺 芳則 六代目 司 忍
〜初代 山口春吉〜
 1915年に神戸 で沖仲仕約50人を集めて、人夫供給を主業務とする「山口組」を創設。
〜二代目 山口 登〜

 1925年、二代目を襲名。 襲名当時、弱冠23歳。 その後、港湾や歓楽街、また芸能界などに進出。
彼の港湾への進出と興行師の永田貞雄との盃は、後に三代目・田岡一雄 が港湾と芸能を牛耳るため
の布石となったと言われる。

1940年春、浪曲興行を巡って対立していた下関・籠寅組の刺客に東京 浅草田島町で襲われ重傷を負う。
1942年10月に死亡。

〜三代目 田岡 一雄〜
 全国の港湾荷役業者による全国港湾荷役振興協議会の副会長として会長の藤木幸太郎氏と港湾荷役労働者
のための厚生福祉活動に尽力。

1913年、徳島県 三好郡 の農家に生まれる。両親を早くに亡くし、叔父に引き取られて神戸 に転居。
1927年、尋常高等小学校を卒業し、川崎造船所に旋盤見習工として入社。2年後に上司を殴って退社。

1936年、二代目山口組組長・山口登 から盃を受け、山口組に加入。1937年、殴り込んできた大長八郎を斬り殺し
懲役8年の刑で服役。この服役中に、山口登が対立組織の刺客に襲われた傷が元で1942年に死去。出所後の
1946年、三代目山口組組長に就任。

当時の組員は僅か三十数人だったが、終戦直後の警察力が弱っていた間隙をつく格好で闇市 の警備(自警団)
で勢力を伸ばす。更に先代の頃から手がけていた神戸港の港湾労働や芸能プロダクション
(美空ひばり や田端義夫らの興行を手がけていた)などの経済活動を法人化するなど、組織の基盤を固めた。
その一方で1950年代から60年代にかけて全国へ進出、各地で抗争事件を起こすなど世間の恐怖と批判を招き
1964年の「第一次頂上作戦」を招いた。この時、若頭の地道行雄が山口組解散へと動くが、幹部会で山本健一 ら
若頭補佐が反対。 この結果、地道は失脚し山本の力が増す。

1963年に麻薬追放国土浄化同盟を結成し、市川房枝 らと麻薬撲滅運動を展開したが、それを疎んじた
警察関係者が山口組壊滅作戦を開始したとされる。

「第一次頂上作戦」を乗り越えた後も勢力の拡張を続け、1978年 7月11日、京都のクラブ「ベラミ」で、対立する
松田組 村田組 大日本正義団の組員・鳴海清 に撃たれ負傷するも命に別状なく、その後も日本の裏社会に
君臨し続けた。

神戸水上警察署の一日署長 をした経験もあり、警察との蜜月時代もあった。
〜四代目 竹中 正久〜
 兵庫県 姫路市 出身。「荒らぶる獅子」の異名をとる。特高警察 に拷問 された兄・龍馬が早逝した経験から、
反権力の姿勢を生涯貫いた。

祖父が助役、実父が村会議員を務めた兵庫県飾磨郡 御国野村大字深志野(現・姫路市深志野)の農家に生まれ
るが、12歳の時に実父・龍次が死亡し、難関の姫路市立鷺城中学(現・姫路市立姫路高校)を中退。暴力事件、
傷害事件を繰り返し幾度も逮捕された後の1960年 8月、地元の不良を集めて竹中組を結成。
1961年 12月、三代目山口組組長・田岡一雄 から盃を受け、山口組に加入した。

数百人の部隊と共に敵地・福岡 に乗り込んで検挙された1962年の「博多 事件」などで、山口組内でも有数
の武闘派として、山健組 組長・山本健一 から絶大な信頼を受け、1971年、山本の若頭就任に伴い若頭補佐
に抜擢された。1978年 2月、地元組織との抗争などで懲役2年の実刑判決が確定し、1979年 9月まで
神戸刑務所に服役した。出所の際には、組関係者ら約1000人が出迎えに駆け付けた。

1981年 7月の組長・田岡、1982年 2月の若頭・山本の相次ぐ死で、風雲急を告げる格好となったトップとナンバー
2を巡る争いは同年6月、過去に若頭・梶原清晴の事故死(1971年 7月)による後任若頭争いで、
一時は後任若頭に決まりながら山本健一の強い抵抗にあい、やむなく若頭就任を辞退させられた若頭補佐・
山本広(山広組組長)が組長代行に就任。 一方でナンバー2の若頭には「山本健一の遺志」として竹中正久が
就任し、にわかに「山健派VS山広派」の様相を呈す。そうした中、竹中は若頭就任間もない同年8月に逮捕され
翌83年 6月まで勾留された。

組内では過去に悲運を味わった山本広に同情する者が多かったが、三代目の妻である田岡フミ子(文子)の
強い意向で、1984年 6月、四代目に若頭・竹中が就任。フミ子に反発した山広派は山口組を脱退、一和会 を
結成した。勢力数こそ当初は一和会が山口組を上回っていたものの、武闘派・竹中四代目の怒濤の攻撃
(切り崩し)を前にして一和会は徐々に弱体化、焦った一和会側は密かに竹中暗殺を計画し、同年9月には
暗殺部隊を結成。翌1985年 1月26日、竹中は神戸の山口組新本部の上棟式の後、大阪府 吹田市 のマンション
で、待ち伏せていた一和会 二代目山広組系組員に銃撃され、意識不明のまま翌27日に死亡した。竹中に
同行していた若頭・中山勝正 (豪友会 会長)も射殺され、山口組は短期間の間に、再びトップとナンバー2を
失う事態となった。

弟の竹中組組長・竹中武は正久暗殺の翌月、山口組若頭補佐に就任したが、若頭・渡邉芳則 (二代目山健組組
長)が五代目山口組組長に就任した際、山口組から脱退した。
〜五代目 渡辺 芳則〜
 1941年、栃木県下都賀郡壬生町の豪農の家庭に生まれる。
1956年、中学校を卒業し、上京。17歳の時、飯島連合系組員と知り合い、ヤクザに。
若い頃は、ゴローと呼ばれていた。 浅草を中心に活動していたが、三代目山口組 山健組 の幹部と出会った
ことから神戸に行く。 1961年 、山健組組長・山本健一から盃を受け、山健組に加入。

抗争を巡る服役後の1969年、山健組若頭に就任。 松田組との「大阪戦争」などに積極的に関与し、
1976年 10月に銃刀法違反などの容疑で逮捕 され、懲役 2年4月の刑で1979年2月から1981年 6月頃まで服役。

山口組3代目・田岡一雄 の跡を継いで四代目を襲名すると見られていた山本健一(山口組若頭)が1982年 2月
4日に急死すると、二代目山健組組長に就任。同年6月、三代目山口組の直参に昇格。 1984年6月、
四代目山口組発足に伴い若頭補佐に抜擢される。 1985年 1月に4代目・竹中正久 と共に若頭・中山勝正
(豪友会 会長)が一和会 に暗殺されると、翌2月、暫定執行部体制で若頭に就任。

1989年、一和会との抗争を終結させて、同年4月27日 、五代目山口組組長に就任。
〜六代目 司 忍〜
 大分県 出身。高校卒業後大阪を経て名古屋に出る。1962年、三代目山口組直系弘田組に入る。中京地区の抗
争では武闘派として活動し弘田組最高幹部に昇格。弘田武志組長引退後は弘道会を結成し、四代目山口組が発
足した1984年 6月、直参に昇格。 1989年5月、五代目山口組発足に伴い若頭補佐に就任。 2005年5月五代目山
口組若頭。 2005年7月次代山口組組長内定。

1997年8月28日の山口組若頭暗殺事件を受けた「新頂上作戦」で、護衛の配下組員に拳銃を持たせていたとする
銃刀法違反容疑で同年11月に指名手配され、1998年6月、出頭し逮捕、起訴された。1999年7月、10億円の保証
金で保釈された。

2001年3月には大阪地裁で無罪判決を受けたものの、2004年2月24日、大阪高裁で懲役6年の逆転有罪判決を受
け、上告。 判決後収監されたが、10億円の保証金で即日保釈された。

2005年3月、弘道会会長の跡目を若頭の高山清司 (二代目高山組 総裁)に譲り、自らは弘田組組長(兼弘道会
総裁)に就任。

2005年5月に、五代目山口組若頭に就任。 2005年8月に、六代目山口組組長に就任した。