山口組は15年(大正4年)に発足した。当初は神戸港の港湾労働者50人の結束に過ぎなかったが、昭和初期から浪曲、歌謡曲、大相撲などの興行利権に手を伸ばして、勢力を拡大する。戦後の46年(昭和21年)からは、3代目を襲名した田岡一雄組長が「日本一」を目指して興業、港湾業界にも地盤を築き、各地で対立抗争事件を起こして組織の拡大を図る。とくに60年(同35年)からの5年間には21府県に勢力をのばし、組員数は7000人を超える大組織になった。
暴力団壊滅へ、警察庁が総力を挙げて「第1次頂上作戦」を始めたのは64年である。重点目標は山口組。企業暴力事件を中心に、組の幹部を集中的に検挙した。そんななかで、カリスマ的存在である田岡組長が入院する。かなり重症とされ、再起不能説まで流れる。山口組内部に、動揺が広がり始めた。
全国的にみて、暴力団の組員総数が減少に転じたのはこの時期からである。壊滅作戦の成果といえるだろう。兵庫県警はこうした情勢を総括し、山口組をも壊滅状態に追い込んだとして「山口組壊滅史」の刊行に踏み切ったのか。刑事部長の序文は「さらに壊滅まで、徹底的に追い込む」という決意をこめた、勝利宣言だったに違いない。これは大ニュースじゃないか・・・・。記者クラブは色めき立った。
山口組はしかし、したたかだった。壊滅作戦のかげで、ひそかにじわりと組員数を増やし続けていたのである。そして75年(同50年)7月に、松田組との「大阪戦争」が始まった。松田組系溝口組長らが豊中市内のスナック喫茶で、賭博のもつれから山口組系佐々木組員ら4人を拳銃で殺傷する。これがきっかけで、山口組が報復する、そしてまた反撃−−。血で血を洗う抗争は、以後1年余の間に10件も続き、死者は12人、負傷者も9人を数えた。
山口組系組員に吉田芳弘会長が射殺された松田組系の大日本正義団は、壊滅状態になった。その納骨のとき、亡き会長の骨灰を飲み下して報復を誓う一人の男がいた−−。こんな男たちの世界、それが暴力団なのだろう

78年7月11日の夜8時、京都の繁華街、三条大橋東入ルのナイトクラブ・ベラミ。山口組の田岡組長が、5人のボディガードを従えて10番テーブルにつく。リンボー・ショーが始まる。歓談しながらグラスを傾ける組長。8時45分、若い男が後部の一段高くなった97番テーブルに座る。なじみのホステス3人を指名する。
9時すぎ、ショーはクライマックス。談笑する田岡組長。9時25分、ショーが終わった。拍手がわく。男が席を立つ。組長の後ろから近づき、両手で握り締めた拳銃を2発撃つ。組長が後頭部を押さえる、崩れるように椅子にもたれかかる・・・・。
15番テーブルの客も2人、倒れる。わきあがる絶叫、悲鳴・・・・。男は拳銃を右手にかざし「どけっ、どけぇ〜っ」と叫びながら走り去った。
救急車が、負傷した2人の客を病院に運ぶ。パトカーのサイレンがうなる。ボディガードが田岡組長を抱えて、キャデラックに乗せる。組員が運転して名神高速を突っ走る。行き先は、組長かかりつけの尼崎市の関西労災病院だった。「桑野さん、どうぞ・・・・」「田岡が撃たれた〜っ・・・・」ラジオカーに、社会部から急報がとびこんできた。厳重にガードされているはずの組長を、なんと単独で狙撃した男がいたという。私は耳を疑った。「大阪戦争の報復か・・・・」「いや・・・・、それにしても、無謀すぎる・・・・」「大阪戦争」の報復合戦はなお続いてはいたが、警察も暴力団関係者も「絶対にありえない」と口をそろえていた事件が、現実に起きたのだ。これは全面抗争になるぞ・・・・。
現場は京都、山口組の本拠は神戸。捜査は当然、両府県警にまたがる。その情報はすべて、連絡調整役の近畿管区警察局の取締対策室に集まってくる。よしっ、警察担当編集委員の出番だ・・・・。私は腹をくくった。大阪府庁4階、管区警察局の保安部長室にとびこむ。鈴木達也部長に、いつもの笑顔はない。いきなり、こう吐き捨てた。

「兵庫県警は一体、何をしていたのか・・・・」

組長狙撃の第1報は、大阪府警から届いたという。組長の動きを常に把握しているはずの兵庫県警が・・・・、という怒りだった。京都府警も現場に急行したが、すでに組長の姿はない。しばらくは、狙撃されたのが組長ということにも気づかなかったらしい。機嫌の悪い理由が、もうひとつあった。鈴木さんは、元兵庫県警の刑事部長。「山口組壊滅史」の序文を書いたその人だったのである。以来10年、その山口組は壊滅どころか、組員総数1万人を超える暴力団に肥大していたからだ。
悔しさを噛み締めるように、鈴木さんはこう続けた。「因縁とでも、いうのでしょうか・・・・。山口組は壊滅していないではないか、という批判にも、真っ向からこたえねばなりません・・・・」鈴木さんは、東大経済学部卒。警察庁のエリート官僚だった。近畿管区に着任するまでに、北海道警函館方面本部捜査課長、京都府警捜査2課長、福岡県警捜査2課長、警察庁捜査1課長補佐、兵庫県警刑事部長、大阪府警刑事部長を歴任してきた。「公安警察偏重」といわれるなかで、ひたすら「刑事警察」を歩み続けた人だった。
田岡組長は当時65歳。傷は頸部貫通銃創で、弾は急所をはずれ、全治3週間だった。

「ドンを狙ったのは、どこのどいつや・・・・。サツがパクる前に、けじめをつけろ」山口組は、報復に燃えた。 えらいことになった。先手をとられたら、警察は面目まる潰れじゃないか。
狙撃の翌日、現場から容疑者の指紋が見つかった、と聞きこんだ。管区警察局に密着する。次の日、指紋から容疑者が浮かびあがった。逮捕状が出た。鳴海清、26歳。「大阪戦争」で吉田会長が射殺され、壊滅状態になった大日本正義団の幹部だ。そう、会長の納骨の日に、骨灰を飲み下したあの男だった。田岡組長狙撃は、やはり亡き会長の報復だったのか。
これは、特ダネだ・・・・。、山口組に先を越されたら・・・・、という危惧が脳裏をかすめたからだ。だが特ダネ合戦に、情、容赦は通じない。「鳴海を指名手配」と一紙が報じ
組長狙撃の夜から、17日が過ぎた。どこに消えたのか、鳴海の足跡はつかめない。山口組側はついに、鳴海に近い組の関係者に拳銃乱射の無差別攻撃を始めた。しびれをきらしたのか、警察も公開捜査に踏み切った。
朝刊社会面に、なんともおぞましい見出しの短い記事が載ったのは9月18日だった。
「六甲山中に入れ墨男の腐乱死体」後ろ手にしばられたパジャマに腹巻き姿の男が、目と口をふさぐように顔をガムテープでぐるぐる巻きにされ、六甲山頂に近い神戸市北区有馬町の瑞宝寺谷の谷底に放置されていたという。管区警察局の捜査幹部の間で、この記事が話題になった。
「入れ墨・・・・、そういえば、鳴海も背中に入れ墨と聞いたぞ・・・・」「確か、天女の入れ墨だったなあ・・・・、もし鳴海だったら・・・・」「思案するより、走れっ・・・・」は、新聞記者も刑事も同じこと。刑事課長がすかざず、兵庫県警に電話をかける。警察庁からも、同じ照会があった。兵庫県警からは、こんな返事が届いた。
「背丈や頭髪の様子が違う。入れ墨は腐乱していて、よくわからない。とにかく、京都府警の手配書とは合致しない。さらに、身元確認中・・・・」
「鳴海だったら、警察の完敗・・・・」という懸念は、ひとまず去った。現場の状況に詳しい地元県警の判断が、まさか狂うことはあるまい。20日の国家公安委員会にも「鳴海ではなかった」と報告されることになった。

兵庫県警はしかし、さらに慎重に確認作業を進めていた。血液型や左手小指の欠損、左足の足紋、腹巻きに入っていたお守りと子どもの写真などを、鳴海の妻に確かめる。背中一面の入れ墨を赤外写真に撮り、大阪・西成の入れ墨師に判定してもらう。
警察庁が国家公安委員会に「鳴海ではなかった」と報告したその日、兵庫県警の結論が出た。「腐乱死体は、やはり鳴海」だったのである。西成の入れ墨師が「間違いない。私が鳴海の背中に彫った天女」と証言し、妻も子どもの写真などを確認したからだ。
警察の「鳴海捜し」は、山口組と競り合う形で計71日間に及んだ。関係者周辺の一斉捜索、検挙を繰り返し、公開手配から1カ月半後までは生存を確認していた。それなのに、鳴海は消された。なんとも、無念!! 警察の“鳴海ショック”は大きかった。
「予想もしなかった結果で・・・・」と「鳴海殺害の情報は、どこからも入らなかった。組内部で隠していたとすれば、従来の常識では考えられない。隠すことで、組員の報復意欲を高めたのか・・・・」
「暴力団に、なぜ先手を許したのか。その点は、今後の捜査ではっきりさせたい」
いつになく、愚痴が多かった。そんな警察をあざ笑うように、山口組は追い討ちをかけてきた。“鳴海ショック”の40日後、組本部を置く神戸の組長宅、通称「田岡御殿」で、堂々と記者会見まで開いた。しかもその席で、一方的に「大阪戦争」の勝利宣言をしたのである。

身分証明を見せ、組員にボディタッチまでされて参加した記者、カメラマンは数百人にのぼったといわれている。無法集団のこの記者会見は、警察にとっては論外だったに違いない。鈴木さんは憤然として、こう語った。
「報道機関が山口組の記者会見に応じるなら、今後われわれ警察は、一切記者会見はしない。暴力団といっしょにされては、かなわない・・・・」事実、山口組の勢力は、あの記者会見から4半世紀が過ぎたいまもなお、拡大し続けている。警察庁統計によると、2003年(平成15年)の組員総数は3万8100人、あの「大阪戦争」当時の3倍以上に増え、しかも全国の暴力団組員総数のなんと44%を占めているのである。

「暴力団対策法」ができてから、12年になる。厳しい取り締まりにもかかわらず、暴力団の資金源獲得の手口は、世相や経済情勢の変化に合わせてますます多彩に、巧妙になっている。さらに政官財界にも、ひそかに暴力の存在を容認する人がいるという。そして山口組だけが、なおも勢力をのばし続ける。
山健組初代組長 山本健一の生涯
"三万人体制"を呼号し、傘下に百余団体の直系組織を擁する
六代目山口組だが、その中にあって山健組は、最大の組織力を
誇示する武闘集団として知られている。
山健組は現在、三代目桑田兼吉組長体制のもとにあるが、
先代の二代目は山口組五代目の渡辺芳則組長で、初代は
"イケイケの山健"の名でも知られた三代目山口組長の若頭、
山健組・山本健一組長だった。
初代・山本健一は昭和三十二年、三代目山口組の田岡一雄組長から
"親子の盃"を受け、山口組系安原会の若衆から山口組
直系若衆に直ったが、山健組を結成したのはその四年後の
三十六年のことである。それに至るまでの山本健一の半生もまた、
極道渡世のご多聞にもれず、波乱に富んだものだった。